2023
1年おきくらいに思い出したようにデュアルディスプレイの環境を整えて、数週間やってみて、結局「ないほうがよい」という結論になる。隣のディスプレイを見るときに発動する、わずか十度程度だけ頭部を回転させた「もう一つの身体」が、「この身体」にどうしてもうまく馴染んでくれない。 pic.twitter.com/8tsUx9adgH
— 「」kenrikodaka* (@kenrikodaka) May 22, 2023
夢の中で、身体が突如、鉛みたいに重たくなって、まるでイメージ通りの動きができないことがある。砂浜をうまく走れないときの、あの感じ。あれは、何かの都合で、夢の中の舞台装置はそのままに、身体だけ、現実の寝そべっている物理的な身体が参照された結果ではないか。夢の中の金縛り、の状態。
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) April 7, 2023
車を運転していて、赤信号で停止している際に書類とか携帯とかの画面にしばらく注意を向けていた後、前を向くと前の車がもう何10mも前にあることに気づいて、「ハッ」とすることがある。このとき、一瞬だけ時間が凍結するような独特なリアリティーがあるんだけど、これって、僕たち人間の視覚認知が、
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) April 2, 2023
2022
今日の授業で初めてやった、サッケード中の変移抑制のデモ(saccadic supression of displacement)。視線を白丸に合わせてると、映像が散発的に止まる。これやばい。
(元ネタはこちら→)https://t.co/QsHpiUBIAG pic.twitter.com/OyrHCxw2m7— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) June 15, 2022
2021
無意識的自己愛、、 https://t.co/AfxszMrP8M
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) August 5, 2021
蛇事件)ぬるっとした感触ではっとして飛び起きたときに、僕の脳裏には、仰向けに寝転んでる自分を見下ろす視点で、素肌の腹の上を滑る蛇の姿がくっきりとした映像として残っていた。飛び起きた時には自分はそこにはいないし蛇も逃げているわけで、(アングルのみならず)それは明らかに矛盾した映像→ https://t.co/0BhFHHypLW
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) June 8, 2021
2020
最近、うちの4歳の子供が神経衰弱にハマってて、僕なんかよりよっぽど強烈な視覚記憶を持っていることに驚いている。で、この種の話、俗説としては、世界的に広く知られているものらしい(知らなかった)。ただ、ちゃんと心理学的に検証したものは少ない。これは最近の論文。https://t.co/bt8lK8weqG
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) January 26, 2020
子供の神経衰弱につき合っているなかで、言語的知性の本質は、現実の恣意的な入替可能性にこそあるということを実感できるようになった。(僕は既に失った)カメラ的知性では揺るがしようもない端的な事実性が、個別の概念に投射された瞬間に、別の概念からの容赦ない転覆の危険に晒されるようになる。
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) January 27, 2020
「1ビットの記憶さえままならない人間」というよりも、「1ビットという極小的な記憶課題において、むしろ、人間の認知が孕む内在的不安定性が極大化する」と考えるべきではないだろうか。あのやっかいな意識が顔を出すのは、おおよそ、その種の「あれか、これか」の状況なのだから。 #神経衰弱
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) January 29, 2020
2019
M1のぺこぱのつっこみを見てて、真っ先に連想したのが、なだぎのディラン・マッケイ。そういえば、最近見ていいなと思った、涼宮ハルヒのキョンの延々と続く自分語りにも、ディラン・マッケイを感じてた。過剰な「自分語り」「自分ツッコミ」は、自らを、語る主体から語られる客体へと反転させる。
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) December 25, 2019
研究テーマと、著者の名前のスペル(の一部)がかぶっているケース。結構な頻度で遭遇する。 #無意識的自己愛 pic.twitter.com/2xPSp0Wex2
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) September 25, 2019
赤ちゃんは、寝返りを打ち始めた頃、仰向けの自分と、うつ伏せの自分とで、全く異なる自己を体験しているのではないか。なにせ、その頃は、苦労して一旦身体をうつ伏せに転じることができたところで、すぐに仰向けの状態に戻れるなどという保証はまるでない。周りに親がいない時であればなおさら。
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) July 1, 2019
あるいは、生後数ヶ月で寝返りをうちはじめるまでの赤ん坊は、どのような視点世界を経験しているんだろう。鳥瞰図的な重力反転が起きた時の自由な感じであったり既視感みたいなものと、その種の言語以前の風景とは何か関係するんだろうか。この辺の話題は、今のところ全く学術的な議論にのらないけど。
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) June 4, 2018
2018
大昔にブームになってたやつの「リバイバル」の高揚感なんかも、この構造に近い。ブームが忘却されている間、社会のメンバーが入れ替わっていて、ほとんどのメンバが、反復されたブームを<初めてのもの>として受け止める一方で、一定数は「またあれか。」という冷めた眼差しを向ける。 https://t.co/LplJ9im29a
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) October 29, 2018
夜中、論文とか申請書とかの文章でどうにも煮詰まっていたところで、寝て起きた翌朝にもう一度同じ文章に戻ってみると、思いがけず、すらすらすらと(まるで誰かの頭の中をジャックしているかのように)有機的に文章が組み立てられていく、ということはよく経験する。(つい先日経験したので) https://t.co/oUzfHmtcnR
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) October 24, 2018
<運命の出会い>の本質は、「無意識の風景の中に埋もれていたもの」との遭遇にある。だから、それは端的に、既に知っているもの・見たことのあるもの(けれど当人がそのことを忘れているもの)との再会でもある。史実に帰属できない無意識の震えは、<運命>に帰属されるほかない。(メディア解剖学)
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) July 6, 2018
「自分」にまつわる属性やエピソードは、オンライン・オフラインを問わず、無意識空間の中で頻繁にエゴサーチされており、何かがヒットすることで、自分に関連する事物への自覚を促すとともに、その検索体系はより巨大化・充実していく。そのような風景として「自意識」を考える。(メディア解剖学)
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) July 5, 2018
「ご長寿早押しクイズ」から学ぶべき重要なことのひとつは、我々の無意識の風景は、「自分」と「糞尿」と「最近見聞きしたもの」で八割方塗り固められている、という見地。(メディア解剖学)
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) July 3, 2018
友近が昔やってたクミ先生の秀逸なモノマネを久しぶりに見て、優れたモノマネというのは、表面的な声とか仕草だけでなく、その人(倖田來未)を駆動しているシステムそのものを乗っ取ることで、結果的に、その人(倖田來未)がシステムに乗っ取られていることを露わにしてしまうようなところがある。
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) June 17, 2018
2015
東京で「ハリカエさん」という奇特な名前の方とお会いして、建築の雑誌の編集者だというので、無意識的自己愛の話をせずにはおれなくなった。大学の「オオグチさん」 が、ど根性ガエルの口を大きく開いたピョン吉Tシャツを着ていたので、その出自に関する考察を誰かに言わずにおれなくなった。病気。
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) August 29, 2015
2014
#yumerec (夢録) 飛行機はレール上を滑走して飛び立とうするが失敗。二度目のトライで飛び立つ際に機体が右に傾き山に墜落、機体をひきずりながら斜面を滑り降りる。墜落の瞬間、先頭に座っていた私は、突如、自分の乗っている飛行機を左側から傍観し、乗客の怪我の様子を観察している。
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) October 21, 2014