映像鑑賞における事件性の問題、触視平面としての『Merge Nodes』(ゲストトークのあとがきにかえて)
昨年末の展示のゲストトーク(谷口暁彦、水野勝仁、小鷹研理)の記録を以下に公開した。
トークの記録を整理している中で、(現場では展開しきれなかったことで)個人的に新たな関心として浮上した問題が数点あったので、備忘として以下にメモを残しておく。
谷口さんの公開質問に対する回答の中で、僕が(主に現代美術の展示を想定して)「長い尺の映像作品を鑑賞することが、僕個人のハードウェアの問題として難しい」というような話をしたときに、谷口さんが展示に「学会」のようなフォームを導入したらどうなんだろう、みたいな話をしていた。そのときは、「学会」の意味するところを捕捉しかねていて、即座に反応しきれなかったんだけど、その後も、この話はずっと引っかかっていた。
僕にとって、展示の場で長時間の映像を見るのが耐え難いのは、物理空間の展示というフォーマット上、(いつでも)僕個人の意思でそこから離脱できるにもかかわらず、そこに留まるという積極的な決断が迫られてしまう、その種の主体的な状況が耐え難いからなのだと思う。とりわけいつ終わると知らない映像を前に退屈していると、自分の内なる声が、この決断の正しさを繰り返し繰り返し問うてくる、その喧しさに対処しなくてはならない。そういえば、薄暗い映画館の中にどっしりと腰を下ろして映画を見るという状況であれば、そのような葛藤の生じる余地はほとんどない。そこには、ある種の「強い強制」が働いているからなのかもしれない(が、心理的に明確に強制を感じるということもないように思う)。谷口さんの言っていた「学会的なフォーマット」というのは、おそらく、このような映画館的な極度に受動的な鑑賞と、インスタレーション的な自由な主体を想定した鑑賞との、中間地点に位置する何かなのかもしれない。
ところで、そもそも展示に限らず、一般のコミュニケーションにおいて、強い自己責任のもとで何かを選択させられているときに、強度のある体験は生まれにくい。そればかりか、ときに自由とは重荷ですらある。この種の自由に関する逆説的な議論は、人文学の諸分野では、それほど珍しいものでは無いはずだ。
実際、展示空間において、鑑賞者が、あらかじめ設られたディスプレイに出力された映像と対面するとき、「見る」か「見ないか」の二者択一的な選択に迫られることになる。僕にはそのような体感がある。この種の状況は「自由にどちらか一方を選択せよ」という”強制選択”に他ならない。映像との自発的な「出会い」は損なわれ、事件性の入り込む余地も徹底的に奪われてしまう。そうして、選択の主体であるところの「自分」の掌の上での鑑賞を強いられるのだ。これらは、展示にとっては極めて窮屈な状況といえないだろうか。
(それにもかかわらず、と言うべきか)他方で、僕自身の印象として、アーティストは、自身のキャリアが洗練されていくと、このようなピュアな映像フォーマットを採用する傾向が強くなる気がしている。なぜなのだろう。すごく下世話な言い方になるけど、僕には、彼らが、すごく「意識の高い」鑑賞者を想定しているように映ることがある。もちろん、これはあまりに一面的な見方ではあるのだろうけれど。
Joe Hamiltonの『Merge Nodes』について、水野さんは、スマホ上のフリックやスワイプという観点から、この映像に独特の平面的質感の由来を説明していた。これは、谷口さんが後で指摘していた「触視平面」(東浩紀)とも深く関係する話で、つまりは、この解釈は、映像鑑賞において、純粋に視覚的な体験に加えて、自身の仮想的なアクション(運動感覚)およびフィードバック(触覚)のイメージが映像平面に投影されているという見方に対応しているのだろう。至極、メディアアート的な視点で、興味深い解釈だと思う。そして、何より、そのような解釈を一度飲み込んだ後になって映像を見返してみると、なるほど、平板化した映像に指を乗せて、ペラペラの映像を移動させているという感覚は、とてもしっくりくるようにも思った。
他方で、僕自身は、当初そのような見方をまるでしていなかったし(事後になってみると、なぜ、こんなことに気づかなかったんだろうとも思う)、そもそも、スワイプ的なトランジッションの無い場面でも、いくつかのシーンでは、例の独特な質感(主空間をめぐる闘争)は全く損なわれずに迫ってくる(例えば最後のシーン)。この辺の事情は、以前、こちらの記事にまとめて書いている。
とするならば、僕たちの世代に特有のスマホ的な画面操作の体験の蓄積は、『Merge Nodes』の映像体験の質について、実質的にどのような役割を果たしているのだろうか。
ひとつのイメージが、あるときには空間的な奥行きを獲得したり、逆にあるときにはペラペラな画面としての見えが前景化したり、といった現象は、それこそスマホ以前から存在しているわけで、『Merge Nodes』は、第一に、そのような現象を、純粋に視覚的な効果として錯覚的に演出しているのは間違いないと思う。その種の、複数のレイアウトにかかる演算によって、ある映像が奥行きを獲得し、ある映像が平板化する。あるいは、それらの質感の変調は萌芽の水準に留まるものかもしれない。そのうえで、スマホの操作を身体化した我々は、スマホの上でフラットな図像を平面的に滑らせるリアリティーを映像空間に投影してみせることによって、もともと内在していた映像の平板化が際立って強調されることになる。予感にとどまっていた平板さの質感が、仮想的な触感の中の具体的な手応えをフックとして、強度のあるリアリティを獲得する。雑ではあるが、ひとまず、そのような道筋を考えている。ここでは、特定の技術に習熟した文化の登場が、もともと人間の認知世界に内在していた世界の見えの分節化を加速させている、そのような構造を読み取ることができるだろう。
この種のアフォーダンスは、何も平板化した映像のみに適用されるものではない。僕が以前考察したように、奥行きのある空間に対しては、その奥をまさぐりたくなるような、別種のアフォーダンスが強力に作用している。この二つの種類のアフォーダンスの見事なコントラスト(固体的 vs 気体的)は、分節化の加速を一層駆り立てることになるだろう。
つづきは来年度の授業で。
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