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ひと月ほど前になるが、VRチャットのイベントに登壇者として参加した。

ご一緒したのは、鈴木宏昭先生、鳴海拓志先生、田中彰吾先生の3人で、最初にこの4人でやると分かった時に、あぁこれは面白くなりそうという予感はあった。まずはこの絶妙な組み合わせを企画した主催のダンテさんに敬意を示したい。

それで、実際、このクロストークは、僕がこれまでゲストスピーカーとして参加したものの中では、特別に面白い体験だったように思う。お互いに話しているうちに(思ってもみなかった)新たな論点が浮上する、という優れて創発的な場となっていた。実際、予定を大幅に超過して、3時間20分という長時間のイベントとなったが、体感としてはあっという間に終わったという感じがある。

以下にyoutubeのアーカイブがあるので是非ご覧いただきたい。


こちらは、視聴した古谷利裕(画家・評論家)さんによる日記。


こちらは、個人的にも、すごくお世話になっている鈴木先生のイベント後の記事。

Social VR,Avatarについて考える(創発と相互作用のために 鈴木宏昭)


最後に、ディスカッションの中の重要な論点となっていたミニマルセルフとナラティブセルフの特性の差異について、イベント後に僕自身がTWITTERにポストしたものを再喝する。

とりわけソーシャルVRの文脈で「自分がアバターになる」という時、その変容が、ミニマルな水準なのかナラティブな水準なのか、それらを区別する視点が必要であるという、重要な気づきがあった。ダンテさんが、錯覚感度の個人差の要因の一つとして「自己概念の明瞭性」を挙げていて、

それはおそらく「社会における自己のアイデンティティ」のようなもので、確かに僕自身はどちらかというと自己概念が強く、勝手に自分の容姿を変えられることに対して少なからず抵抗があって、僕がアバターの中の人のことが気になってしまうのも、その裏返しなのかもしれない。

逆に、少なくとも今のソーシャルVRのコミュニティには、現実の自己概念から積極的に離脱しようとする動機のある人が割合多く集結している印象がある。界隈の人たちによる「自分がアバターになる」は、こうしたナラティブな水準で語られていることが多いのかもしれない。この点は要注意と思った。

何より僕自身の例が鮮やかに示しているように、ミニマルセルフの身体変容の感度は高いけれど、ナラティブセルフの変容につまづきのある人もいるし、逆にラバーハンド錯覚を感じない人が、ソーシャルVRにはがっつり没入できるということも普通にあるのだろう。

これらが別軸になっているという理解は、ソーシャルVRに対する実験心理学の適用範囲を考えるうえで非常に示唆的。関連して、身体の一部(手や足)と比較して、身体全身はどうしてもナラティブな性格を帯びてしまうということを考えると、

フルボディ錯覚は、そもそもがラバーハンド錯覚よりもナラティブな変容成分を多く含むと言えるだろうし、ラバーハンド錯覚でも、例えば人種と直結する皮膚の色を主題とすると、感度が大きく変わってしまう、ということもあるかもしれない。

少なくても僕個人の体感による「アバターになる」ことの(身体変容としての)物足りなさは、この「ミニマルセルフに刺さってこない」という一点に尽きる。だからこそ、長い時間使っていることで、「ナラティブセルフ」の変容を迂回して「ミニマルセルフ」の変容に迫るということがもしあるのであれば、

それは面白いと思うし、その意味で鳴海さんのチームは重要な検証をしていると思う。


メモ。「自己概念の明瞭性」については、ダンテさんの以下のツイートが参考になる。


補足。ミニマルセルフとナラティブセルフに関する議論は、今回ご一緒した田中彰吾先生の書かれたこちらの本が非常にわかりやすい。

この本はそれ以外の話題についてにも本当に刺激的で、それでいて読みやすいので、身体変容の問題について関心のある方にオススメです。

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